体験談 眼瞼けいれん(30代女性)

眼瞼けいれん

  (30代 女性)

 

■ 発 症

 目に異常を感じるようになったのは、2002年1月くらいのことでした。そのとき28歳。仕事にも、東京での生活にも慣れてきていたころでした。まぶしくて、目があけられませんでしたが、はじめは症状を軽く感じ、会社ではふざけて上まぶたにセロテープを張って目をあけたりしていました。コンタクトで目に傷でも入ったのかと眼科を受診したところ、そうだということで、点眼薬が処方されました。2週間後、傷はなおったものの症状は続いたので、医師に告げると、今度は「自律神経失調症」と診断され、ビタミン剤と精神安定剤が処方されました。本で調べると、「自律神経失調症」にも「まぶしい」という症状がありました。自分が「自律神経失調症」になるなんてと驚き、花粉症か?仕事のことか?一体何で精神不安定になっているのか?とひどくショックを受けました。1ヶ月ほど、薬を服用しましたが症状は変わらず、違う病気じゃないかと思うようになりました。

目の影響と精神的ストレスもあり、ひどく疲れていましたが、どんな病気になったのか理解できず、目だから休むまでもないと元気に振舞っていました。例えば、「熱がある」などの症状であれば、安静にしなければとその対応を決め、それなりに振舞うことができるのですが、この症状に対して、どんな病気が重いものなのか把握できていないため、体の声に耳を傾けることをせず、たいしたことじゃないと勝手に判断していました。また、同僚や上司と話をすると一瞬目が開くので、その症状のつらさ、深刻さを感じ取ってもらうことは難しく、また自分でも説明がつかないためどう相談したらよいかもわかりませんでした。

 

■ 眼瞼けいれん

 1ヶ月ほどたって会社の産業医に診てもらったところ、「眼瞼けいれんでは」という診断をうけ、神経内科に紹介状を書いてもらいました。「けいれん」という言葉から想像するようなピクピク勝手に動く症状はないので何かの間違いかと思いましたが、先生に質問したり、インターネットで調べたりするとまさしく自分の症状があてはまりました。神経内科では、やはり「眼瞼けいれん」と診断され、「20代で若いのに珍しい」と言われました。ひとまず病名がわかり落ち着きました。

 病名がわかって治療の道筋がついたと思ったからです。アーテンをはじめて服用したとき、薬の威力と久しぶりの目が開く感覚に驚きました。いつも力がはいっていた眉間やおでこの部分の力がぬけ、目が普通にあきました。しかし、1ヶ月ほど服用し続けたにもかかわらず治っている感じがしませんでした。効いていないのではと思うようになりましたが、最初の感動が邪魔をして薬をやめることができませんでした。ある日、会社の机で目をつぶったまま、目がどうしても自分の意思では開けられなくなり、これまでなかったようなひどい症状になったとき、ようやく「もう、だめだ」と感じ、会社を休むことになりました。既に体は疲れきっていましたが、内臓の病気ではないのだから休むほどでないのだと、自分で勝手に解釈して頑張ってきましたが、やっと病気の深刻さを理解できたときでした。

 

■ 休 職

 会社を休んでいる間、他の病院へも行きました。症状が改善しないので、他の病院の治療も受けたいと思ったからです。そこでは、他の病院に通っており、薬を処方されていることを伝えると「薬が効いているのならそのままでいいじゃん」と不快な対応でした。医師の態度に悲しくなりました。数日会社を休んでも症状はよくならないため、宮崎の実家に戻り休養を取ることにしました。実家の父母は、私の変わり果てた姿に心配顔。このような病気の人を見たのも・聞いたのも初めてで、原因もわからない。これまで順調に育ってきた娘が、目もあかず、疲れ果てどうしていいかわからないといった様子でした。

 

■ 不 安

 実家でゆっくり過ごすものの、まだ28歳なのに、仕事もできないし、結婚も決まっているがこんな状態ではどうなるかわからない、私の人生この先どうなるんだろうと不安になりました。ゆっくり過ごす間に漢方も試しました。2ヶ月服用しましたが、劇的な変化もなく6ヶ月はかかると言う言葉にあっさりとあきらめてしまいました。

家族、親戚みんなで心配してくれ、気分転換に連れ出してくれたりとゆっくり過ごしているうちに、気持ちも落ち着いたからか少し改善し、時々はあけられるようになっていました。しかし、ただ休み、積極的な治療を行なわないのが先行き不安で、まだ行なっていなかったボトックスをしたいという気持ちが高まりました。また、治るかわからないわが子を心配する母を見るのが日に日に重荷になり、実家に居ずらくなっていました。それで、2ヶ月ほど宮崎で療養した後、東京に戻り、ボトックスを受けようと決めました。

 

■ 試行錯誤

 東京へ戻ってすぐボトックス治療が出来ると聞いていた病院へいきました。まず、アーテンとグラマリールが処方されましたが、やはり改善する感じはありませんでした。また、体を思うと内服薬を続けることに抵抗感もでてきていました。7月についに、ボトックスをはじめました。先生もあまりボトックスの実績がなかったのか、処方量も注射の位置も試行錯誤でした。

一人でいるのも気がめいると考え、7月に会社に復帰することに決めました。復帰は不安でしたが、一人で1日誰とも話すことなく家で過ごすより、なにかしていたほうが気分も体も元気でした。集中して何かをしていたほうが眼も開いていました。会社の人も心配して先生を紹介してくれ、免疫的検査をしたり、整体や気功を受けたり、カウンセリングを受けたりしましたが、病気の原因はわかりませんでした。治らずあせり、気持ちは不安定でした。そのころ、結婚は破談となり、さらに落ち込みました。友人の励ましもあり、また、仕事が続けられ、一人落ち込む時間少なかったことで、立ち直ることができました。

 

■ 病気を受け入れる

 病気になってなんで私がこんな目にあうのという気持ちになっていましたが、一方で家族や親戚、友人や偶然であった方たちにまで本当に心配して助けてもらいました。ボトックスで症状が安定してくると、人の痛みがわかるようになったことは、貴重な経験だと少し思えるようになりました。何気ない一言に傷つくたびに、これまで私は人の痛みなど全然わかっていなかったことも改めて実感しました。また、友人と気晴らしにでかけた宿坊で、霊能者に会い、悪い霊が見えるからと払ってくれ、一緒に神主さんも滝行や祈祷をしてくださいました。「あなたは大丈夫」と励ましもいただき、人の優しさの心が染み入りました。

病気なって1年くらいは、病気を受け入れられず、いろんな治療をうけたり、薬を飲んだり、気分のむらも激しかったのですが、以後は、次第に病気を受け入れ落ち着くことができるようになっていきました。

 

■ ボランティア活動

 担当の先生が開業で通院が遠くなるため、知人から聞いた井上眼科病院に通院することにしました。井上眼科病院にいくと、自分と同じ症状の人がたくさんいました。同じ病気の人にはじめて会ったので、不謹慎かもしれませんが嬉しく思いました。たくさんの人が心配してくれていましたが、この病気は当事者でないとわからないという気持ちもどこかにあったからです。何度か通院するうちに、年が近い方に声をかけ、話を聞きました。分かり合える人にあえ、気持ちが休まる思いがしました。しばらくすると、はじめての患者の会が行なわれ参加しました。同じ患者でわかりあえる感動を広げるためにもボランティアに参加することにしました。

 

■ 今 後

 発症して5年半になり、薬は服用せず、ボトックスのみで治療しています。病気になって私の人生どうなるのかとくよくよしてばかりいましたが、周りの理解もあり、以前と同じような生活に戻ってきました。31歳で理解ある方にも出会い、結婚をすることもできました。ボトックスは効果的ですが、子供が欲しいと思うと心配な面がありました。しばらくはボトックスで落ち着いていましたが、漢方と鍼でよくなったという話しを聞いて、漢方と鍼治療に変えたこともありました。しかし、効果がすぐ現れにくいからか、その間自転車にぶつかったり、ひやりとする場面が増え、身の危険を考えボトックスは続けることにしました。

4月に16回目のボトックス注射をし、生理を1回経て妊娠しました。薬の添付文書では、2回の生理を経てからと記載されています。赤ちゃんに影響があるのではと心配はありますが、先生からもボトックスは局所の薬であるし、影響はないと言われています。それでも心配はつきませんが、健康な子が生まれてくるのを願うのみです。

ボトックスという治療法は対症療法であり完治はしないと言われています。やはり完治したいという気持ちがあります。

今は、ボランティアとして友の会に参加しており、患者同士の交流や、先生方の講演を聞き、自らの病気への理解を深め、最新の治療動向を聞く機会を得ています。さらに、友の会の活動は、製薬会社や国を巻き込んでのボトックス価格値下げの運動にまで広がりをみせています。

これからも、友の会の活動がさらに広がり、原因解明や治療法開発のための研究費助成に協力でき、少しでも早く完治への道が開かれればと願っております。

(2008年元気な女の子を出産しました。注:編集者) 

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