体験談 メージュ症候群

メージュ症候群

         (30代 男性) 

 私が瞼の異常を感じたのは、平成14年12月の事であった。歩いていると自然に瞼が下がってしまい、手で瞼を押し上げなければ歩くことも出来ないのだ。当初は「疲れ目のせいかな?」と考えていたが数日たっても症状の改善がみられないので、かかりつけの眼科病院で診察を受けた。初めは〝ドライアイ″と診断されて、目薬を点眼するように言われたが、数週間しても症状は変わらない。何度めかの通院で〝眼瞼痙攣″の疑いありと言われて、他の病院を紹介された。しかし症状は徐々に悪化して、外出も出来ないほどに酷くなっていった。その為、年が明けた平成15年からは出社が難しくなり『休職』状態となった。(結局それから半年後の夏に『退職』した)

 

 健康保険組合から紹介された大学病院で色々な検査を受けた結果、〝メイジュ症候群″と病名を告げられた。薬物治療やボトックス注射を受けたが、まったく効果は現れない。

入院して再度の精密検査を受けたが、結局〝原因不明″〝眼瞼痙攣に開瞼失行を併発している″と言われた。この時の医師の対応は、まったく不誠実で担当医が複数いらしたがそれぞれ個別の意見を述べて、病院としての統一した見解が無く、言うことがコロコロと変わっていった。そして症状の改善がみられないと私の診察を避けるようになり、最後には〝精神的な事が原因であるから他の病院(心療内科)で診てもらうように″と転院を指示された。この処置に怒りを感じ、ネット等で調べて〈眼瞼痙攣の治療経験が多い他の大学病院〉で治療を再開したが、医師は〝この病気は根治することが無く、対処療法しか出来ないがボトックス注射で効果が無ければ治療法は無い″〝効果が出ない事がある、と納得して治療を受ける意思があるのなら注射をする″と言うのだ。藁にもすがる思いで数回の注射を行ったが、目に見えた効果は無く病状はさらに悪化していった。顔、顎、喉、声帯にもジストニアが広がり、「会話も出来ず」「食事をすると舌を噛んだり」「誤飲をしてむせる」ようになった。腕や首がふるえたり、唾液を飲み込むことさえスムーズに出来ず、一番症状が出にくい横臥状態で過ごす事が多くなった。

 

 息子の病気を心配した両親は、発病してからしばらく後に私を引き取り面倒を見ていたが、良くならない私の体を心配してあらゆる治療法を受けさせた。「気功」「占い」「気学」「お祓い」「湯治」「マッサージ」「運動療法(スポーツジムでの運動)」など。だが病状は良くはならなかった。ただこの時に深く印象に残ったことは、「湯治旅館の女将さんや従業員の人たち」に受けた親切の数々であった。気持ちが沈み病気に苦しむ私に、細やかな配慮と暖かい励ましをくれた。あの時の事は今も忘れられない。またそこで偶然に私と同じ病気を患った人がいることを知り、紹介してもらった。その人は発病してから約8年半ほど治療をした結果、現在は完治して普通の生活をしている事を知る。これは非常に大きな心の支えになった。(現在、上記の治療で継続しているのは、「お祓い」と「運動療法」だけである)

 

 病気の苦しみとその進行におびえる私は一人でいる事が怖くなり、両親の近くに出来るだけ寄り添うようになった。唾液を飲み込むことさえ苦痛で、「いつ窒息死するかも知れない」と考えたからである。死から助けて欲しい事と人知れず独りで死ぬことが恐ろしかったのである。また涙腺が壊れたと思うほど、よく涙を流した。過去を羨み、未来に慄き、病気の苦しさや何気ない言葉でよく泣いた。井上眼科を受診したのは、泣いてばかりいる時期であった。大学病院に不満を持っていたので、知り合いの紹介で受診した。若倉先生は一瞥したときに「怖そうな先生だな~」と思ったが、声と態度が落ち着いていて、この病気に対する経験の豊富さを感じたので、転院を決断した。平成15年12月にボトックス注射を受けて瞼が少し開きやすくなったが、腕や首のふるえと誤飲の症状は変わらない。次のボトックスを打つ時期の診察室で「梶先生という専門医がいるのだが、その人の診察を受ける気持ちはないか?」と若倉先生が訊ねた。話を聞くと、京都大出身の先生だが現在は徳島医大の教授らしい。「四国は遠いな~」と感じたが、「少しでも改善のチャンスがあるなら」と受診することに決めた。

 

 紹介状を書いてもらったが、若倉先生も先方との面識が無いため〝後は自分で調べて受診するように″と言われた。徳島医大に電話をして予約を取り、梶先生の診察を受けたのは平成16年2月24日であった。数枚の問診表に記入して、紹介状を渡し診察を受けた。

神経内科でよくやらされた「歩いたり」「指をさしたり」「瞳を動かす」等の検査をした。診断結果は『メイジュ症候群』との事だった。但し〝まだ病気になってから早い時期であるので、治る可能性がある″と言われた。その為には2~3週間の入院が必要との事だった。

希望が灯りさっそく東京に戻り、若倉先生に相談して徳島医大で治療を受けることにした。

 

 6月に徳大病院へ入院する。梶先生は忙しいらしく、島津先生と松井先生が担当となる。私のいる病室は、本来は〈整形外科患者用のフロア〉にあるのだが神経内科の患者が半分位いた。私は余所者の処世術として、こちらから積極的に且つ朗らかに声をかけていった。友達や知り合いも増えて、それぞれの身の上話なども聞くことが出来るようになった。病院の中では話題がとても少ない。テレビや新聞の記事や食べ物のこと、そして最も話題に上がるのは病気の事である。

ここには病気と共に、色々な人生があった。外の世界では年齢の老若で『死』が決まることが多い。しかし、ここではそんな約束は無い。若くても「死」が近くにいる者、老人でも退院後の人生がある人もいる。ここでは「死ぬ」ということを誰でも考えぬ訳にはいかないのだ。病院という閉ざされた空間の中では、「死」と関わる事について避け続けることは出来ない。

ここで私は自分が現在おかれている状況を認めることが出来た。過去への追想や未来への不安、今の状態を認められない事からやっと離れることが出来た。「死」を感じる人々は、指や手、足を失っても「生きたい」と願っていた。指先から肩へと徐々に「感覚」や「力」が無くなっていく人もいた。その原因さえ判らず、治療をしても効果が無く、かえって副作用で苦しむ人もいた。「人間は何かを得ると別の何かを失わなければならず、そして何かを得る選択の幅も段々と少なくなっていくのではないか?」と思うようになったのは、そのような人たちを知ってからであった。私がこの病気を得た事で〈失ったもの〉仕事、経済的な自立、行動の自由。〈得たもの〉病気、家族のサポート、考える時間。また病気と年齢により、私の選択肢は以前より少なくなった。でも「死」が近くにいる人の選択肢はもっと少ない。その人達が〈選びたいカード〉は「生きるカード」だ。その為には、手や足、他の部分を失ってもよいと考えている。彼らにとって〈私が選べるカード〉はどれも上等なもので、このカードに不満を持っている事に対しては「なに贅沢を言っていやがる。なんならカードを取り替えてやりたい」と思うことだろう。

 

 幸いにも徳大での治療(ボトックス注射と薬療法の併用)は良好で、徐々に日常生活をこなせるようになった。私にはまだ〈選択出来るカード〉が残っていたらしい。友の会への活動に参加した動機は、上記の入院経験から得た考え方のためである。平成17年2月26日に第1回の例会が開催された。自分も病に苦しみながら、同病の患者たちをサポートする委員会の人たちの活動に感動し、その強さに敬意を覚えた。そして自分もその一員になろうと決意した。〈例会運営に参加できるカード〉を持っている自分はとても恵まれているし、その事により〈私の選択カード〉は増えていくのではと思うのだ。〈今まで隠れていたカードを〉見つけたような喜びを得たのだ。

 

 病気をして一番イヤだった事は、家族や知人から〝気力があれば病気が逃げていく″とか〝今までの生活習慣に悪いことがあったからだ″とか〝考え方を改めないといけないね″と言われることだった。「病気は治らないが、それを認めて生きていこう」と思っても〝そんな心ではダメだ。絶対病気に勝つ気持ちでいないから治らないんだ″と言われる。

「どうしてこんな病気になったのだろう?」と思い悩んでいる時〝食生活が悪いせいだ!″〝今までの人生で何か悪いことをしたからだ″とか〝禁忌を犯したからだ″とか言われると、本当に泣きたくなってしまう。特に病気で弱っている心に〝お前は悪い!″と言わないで欲しい。不幸な事に人間は悪いことを沢山しているし、病のおかげで後悔する時間は幾らでもあるのだ。どうかご家族や病人の周りにいる人々は、この気持ちを判ってください。

 

 最後に。私の人生はまだまだ困難を抱えています。「治療の効果が薄くなり病気がまた悪化するのではないか?」、「定職につけない経済的な不安」「家族や知人とのトラブル」等あります。これから先に、もしかして考え方が変わってしまうかもしれません。でもこの〈体験記〉は「病気の経緯とそれによって得た今現在の考え方」を正直に述べたものです。もし、この文章を読む皆さんの参考に少しでもなれば幸いです。

(現在は、健康をだいぶ回復され、技術者の資格を取得、正社員として忙しく過されています。注:編集者)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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