体験談 (二十五年目の春)

二十五年目の春

60代女性

私は現在六十三歳。看護師をしています。眼瞼ケイレンの症状を自覚したのは三十八歳の頃でした。タイやフイリピンで十年近くボランテイアとして働いていた頃でした。小さな島の病院、日本人は私ひとり、言葉や文化、習慣も違うストレスの多い生活の中でそれは始まりました。

日本に戻ったのは四十歳のころでした。瞬きが多くなり瞼に力がなく、じっとしていると瞼が、自然に落ち、目を閉じてしまうようになりました。仕事中も目を閉じていることが多く「眠っているの?」と言われたりしましたが、決して眠いわけではなく、目をあけようとすると、かなりの努力がいるのです。長い間コンタクトをしていましたが異物感を感じるようになり、メガネに変えてみましたが、歩いていても、ドアや人、電信柱にぶつかり、いくつもメガネを壊してしまいました。

ストレスを解消するためにウオーキングを始め、日本各地で行われるウオーキングイベントに参加したり、友人との山歩き、家ではガーデニングに勤しみました。それでも、目を開けることは、だんだんむつかしくなり、「しっかり目を開け、前をよく見て歩きなさい。」と、お叱りを受けることが度々でした。

気功にも五年くらい通いました。心を落ち着け練功をしていると、少しは良いような感じもしましたが、日常生活において、あまり効果はありませんでした。

平成十五年からの一年間、仕事でバンコクに滞在しました。信号があってないような道路を横断できず、車の流れや人の多さに足がすくみ苦労しました。会議の間中目を閉じている私を見て、仲間のドクターが、「絶対おかしい。検査したほうがいい」と、強く言ってくれました。早速、病院を受診しましたが、バンコクの病院では、たいした検査をすることもなく、重症筋無力症と、診断され、ステロイドを内服しました。毎日内服を続けても一向に目は改善されず、むしろ体調は悪くなりました。

日本に戻り、大学病院の神経内科を受診し、重症筋無力症は、否定されました。眼科受診を勧められ、近医で「眼瞼けいれんの疑い」といわれ、大学病院で眼瞼ケイレンを研究しているドクターを紹介されました。二十年近く悩み苦しんできたこの辛さに、一筋の光が射したような気になりました。最近始まったというボトックス療法の説明もあり「たとえ高価であっても、治療が受けられるならば、救われる!」と、喜んだのも、つかの間、瞬きの検査などから「眼瞼ケイレンとしても軽く、ボトックスをするほどではない」と言われ落ち込みました。パーキンソン病を疑われ、またそこから神経内科へ逆戻り、そこでもパーキンソンは否定されました。どこの医者も、疑った病気は否定してくれるけれど、何の病気なのか、誰も見つけてくれることはありませんでした。診察券が増えていく一方で、目の辛さは、一向に解決されず、もどかしい日々が続きました。

仕事も辞め、家でぐだぐだする日が続き、自分自身が怠け者のような想いに陥ったり、どんなに努力しても改善されず、鬱陶しい目の症状は悪化していきました。

自転車に乗れば、目が開かないため石垣にぶつかったり、植え込みに突っ込んだりして怪我が絶えませんでした。

今年やっと、「目がしょぼしょぼしたら 眼瞼ケイレン?」の本に出会い、井上眼科に紹介され、二十五年目の春が私にやってきました。ボトックス治療はまだ二回しか受けておりません。一回目の感動に比べ、二回目の効果はあまり感じられませんが、長いトンネルの先に光を見出したように、希望と喜びに溢れております。また、交流会に参加させていただき、同じ苦しみに悩む多くの方々に出会い、大変慰めと励ましをいただきました。

これからは、私も、まだまだ暗闇のなかにいる方々のために、クラッチメガネの存在やボトックス療法があること、一緒に頑張って行くことのできる友の会の支えや存在を、機会あるたびに伝えていきたいと思います。今後とも、よろしくお願いいたします。

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